序
章
私ごとですが、今でも、あれもやりたい、これもやりたい!と誠に落ち着きません。
学生時代からすでに、生涯ひとつの仕事をやり遂げるのは
性格的に所詮無理な
こととは感じていました。同じレールの上を
走り続ける根気がない・・・と言われれ
ば
それまでですが、私自身は「何でも興味あるものは、沢山
やってみたい好奇心
の塊」だと
思っています。
そんな私ですから、当然あれこれと手を出しました。楽しい仕事も、そう
でもない
仕事も経験しましたが、生来の凝り性のお陰でどんな仕事
でも一生懸命に打
ち
込み、人様よりは早くにマスター出来たり、スキルアップ
したりする自負もありま
し
た。
そうなると、当然の成り行きというか、先が見えてきてしまうんです。生
意気なこと
を言う、と当時の諸先輩方には叱られそうですが、早く言
えば「飽き」てしまうの
で
す。
そして、同じ系統の仕事を渡ってスキルを上げてゆく、という気も全くな
く、「さあ
、今度は何をしようかなぁ・・・。」と考える時間を持つ
ことが人生における至福
の
時なのです。
って言えば聞こえが良いのですが、要は自分の時間をジャブジャブと
無駄遣い
するのが大好きなんです。どんな組織にも属したくない。どんな人にも仕えたく
な
い。いかなる人達とも群れたくない。ってもう我侭野良助
そのままですねぇ^^
Kさんは、そんな私が足元にも及ばないくらい、筋金入りの我侭プー
タローでした。
最初に出会ったのは平成2年の秋でした。なんかかっこいい「世捨て人
風」だった
のを憶えています。粋人というよりは仙人に近い感じで、夜な
夜な二番町界隈に
現れては
飲んでいました。
年齢は私より4つ上でしたが、当然ながら家庭は破綻し母親と二人で暮してい
まし
た。飲み代は母親にたかっていたのでしょうが、毎晩のことで
すから私の店も含め
て順調に”ツケ”は溜まって行きました。
”ツケ”で飲み回るのに何故さらに”ツケ”を認めるのか?
それは、その時代特有の事情と、彼の住居(というか母親所有の家屋)が、飲
み屋
各店に”ツケ”を無限に認めさせていたのです。多いところは
100万円を有に超え
るツケがあったようです。
平成2年といえば、都会ではバブルが弾けはじめたころですが、松山市など地
方
都市では、都会で上がりきった土地から逃げてきた地上げ屋が
物色を始め、まだ
まだ
バブル真っ只中という頃でした。
Kさんの住まいは大街道と湊町銀天街の交わる松劇アトリウムの前あたり、当
時
、名を馳せた「L字型大型商業施設」構想により大型地上げが
始まり、周囲のいく
つか
の土地は既に地上げが進んでいたのです。
Kさんの母親名義の土地はナント100坪。二階建ての古い家屋の一階は散髪
屋
、一杯飲み屋などに賃貸していました。
この土地に、今すぐ手離せば、「現金2,000,000,000円!」っ
て値が付きました。
ゼロをいくつ並べたら20億になるのか、正直私はいま逡巡し
てしまいまし
た。
ここから、話がはじまります。