第
六章 その後のこと(最終章)
第五章で終わりにしよう・・・と思っていました。
しかし、ここまで詳細に書いたからには、その後のKさんの
足跡をもう
少し書かないと読者も納得できないと考えまし
た。
第一、肝心のKさんがどこまで逞しい人であったかを書かな
いと失礼
だと思います。
いよいよ、これで最終章になります。
Kさんには、Fさんという仲の良い同級生がいました。私はFさんの
ことを、かなり
前から噂で知っていましたが、初めて会ったとき「隠居人」という肩書きの名詞
を
頂いたのを昨日のように憶えています。強烈な印象でした。
Fさんのお父さんも松山では相当な著名人でしたが、
Fさんも負けず劣らずの
有名人でした。
さらに、現在、Fさんは全国的に有名になり、大学の教壇に、各地の
講演
に
、著作活動、マスコミの取材等など、果ては映画のモデルにもなったりと
超多忙
な毎日で、さらにはその職務故の特殊性から2
チャンネルまで賑わしています。
このFさん、かつてA学園始まって以来の秀才の誉れ高く、文字通り
「末は博
士か大臣か!」を地でゆくような青春期だったようです。
しかし、彼は”思うところあって・・・”高校2年のころ、突如として試験の答案を書
かなくなり、ついには不登校の兆しを呈し、さらには”ひきこもり”の状態にさえ陥
ります。
この”思うところ・・・”というのが問題で、本家本元のFさんにさえ、その正体が
わからないままそれが、Fさんの今で言う「自分探し」の人生に繋がったようです。
そういうちょっと変わった秀才でありながら”俺はなにものなのだ?”という人たち
が自然に集まって来てもなんの不思議もないですよね。Kさんとの縁で数人の
仲良しを紹介して頂きましたが、Fさんを筆頭にキューバ革命を賛助する人とか
枚挙にいとまがありませんでした。
只、みんな紛れもなく会話していて楽しい。人をあきさせない術を心得ている、
というか、秀才と呼ばれる人たちは生来そういう素質を持ち合わせているよう
です。
別に小難しい理屈をこねることもないし、面白くもない理論をひけらかすことも
ない。それでいてウイットに富んだ思わず噴出すような会話で一杯なのです。
しかし、KさんにしろFさんにせよ、一切勉学などしなくなり、不登校にもなった
のに一方は慶応、片や早稲田にゆくのですから凡人には真似られません。
(A学園は落ちこぼれた人でも私立の医大へ行きますからねぇ・・・^^)
さらに私が不思議に思うのは、それだけ、勉強イヤ!学校イヤ!って言いなが
ら、さらに大学にゆくことです。やはり、別の意味でも凡人ではないです^^
前置きが長くなりましたが、もう少し我慢してください。
Fさんは、Kさんとの長い付き合いの中で、自分に問い続けていても
解らなかった
答えを見出します。
そのころ、Fさんは松山で、高校の同級生と学習塾を立ち上げ、将に向かうとこ
ろ敵なし、日の出の勢いで見る見る内に業界の覇者となりましたが、突然辞任し
「隠居人」の名詞を持ち歩き、またもとの”自分探しオジサンニート”の真っ只中
にいました。私が出会ったころです。
Fさんは、新規事業を模索していました。
学校へ行く気力がない。仕事をする気力もない。将来どうしていいかも全くわから
ない。現在では”ひきこもり””登校拒否”とか”ニート”とかいろいろ社会問題になっ
ているようですが、かつては、親のしつけ不足、本人のやるきの無さ、など後天的
な人格形成が主因だと言われていました。
現在においては、後天的な要因も勿論あるのだろうが、実は先天的に、組織に
適合あるいは順応できなかったり、基本的なルールさえ守ることが苦手だったり、
ひいては対人関係に支障をきたしたりする「性格的」な問題を持った人たちがいる
のではないだろうか?ということが徐々に解ってきています。
まだまだ、「気合だ!」「根性なしだ!」と言われていた時代に、Fさんは親友の
Kさんと接触するうち「人格障害」という仮説にたどり着いたのです。勿論、自分
をも含めてのことだったのでしょう。
後年、Fさんは
「今日の僕があるのは、Kのお陰である。」と断言されていました。
やがて、Fさんは、NPO法人を立ち上げます。
ご存知の方も多いでしょう。「ニュー・スタート事務局」です。
人格障害者が精神障害者と同様に扱われ、障害者枠で就職支援や社会
的援助
が出来るようにならない限り、ニート問題は解決しな
い。
というのが「NPO法人ニュースタート事務局」のそもそもの基本的理念です。
この「ニュー・スタート事務局」については、ネットで検索すると、ザックザックと
ヒットしますのでそちらでご覧下さい。
さてさて、Kさんの立ち退きの日が近づいてきました。
Kさんには行くところがありません。なんで、こんなことに・・・・と彼はそのごに及
んでも悔やんでいました。しかし、本当にもうなんにもないのです。
「坪300万円くらいで落ち着くと思っていたのに・・・」がその頃の口癖でした。
遅い遅い!いまさら遅すぎる!その都度、私は思っていました。20億が一晩で
7000万になった訳じゃないぞ。流れ落ちてる水は掬ったら必ずコップに入ります
がな・・・・^^
そんなときに、Fさんが、手を差し伸べたのです。
「浦安にうちの寮があるから、おいで。若い衆と一緒に暇つぶしした
らいいよ。
寝るとこ、食べることは心配ないから。」と。
ニュースタート事務局は登校拒否やひきこもり、ニート達の為の更生寮を持って
いました。
基本的には自分のことは自分で始末し、農作業や雑用などを計画的にこなす
「森田療法」のような、云わば作業療法を主体としたようなものだと私は理解して
います。また、希望者にはイタリアやフランスの田舎で農作業をしながら過ごさ
せるプログラムもあるということも聞いていました。
K
さんは喜びました・・・が、ソレッ!という具合には飛び込めません。いい年し
たオッサンが親から委託された登校拒否や引き篭もりの学生、仕事につかない
若者などが住む寮へ一緒に住み込むのは考えただけでもキツイですよねぇ。
早速、私のところへ来て、「どうしたものか?」と20億円の時と同じレベルで相談
を持ち掛けます。Fさんならばこそ、いくとこ無いから声をかけてくれたんだから
多分いくと思う・・・けど、いくの怖いし・・・行かないとホームレスになるし・・・
う〜む・・・という具合です。
まるで、初めて幼稚園にゆく僕ちゃんと同じです^^
「Kさん、行くより他ないやろ。年貢の納め時や。」
そういうしか私にはありませんでした。
そして、彼から連絡が途絶えてひと月ほど経った頃、店にひょこっとFさんが来ら
れました。講演で松山まで来られたついでに、Kさんのことを伝えたかったようで
す。
「Kが二週間ほど前に突然やってきてな、暫くは寮でゴロゴロしとったんやが、
あまりに退屈したんやろなぁ、若いしの農作業を見に行きだして、最近では若いし
がトロトロやっとったら口出ししたり手伝ったりしよるわい。飯が美味いそうじゃ^^」
と言うことでした。
そして
「Kを迎えに行った職員に”Kはなんか荷物もっとったか?”と聞いたら、
”なーんも、小さなボストンバッグだけでした。”と言うやないかい。しかもその
バッグには下着だけしか入ってないという。あいつ、ホンマに下着以外なーんも
ないんやろか?」
そら、不思議に思いますわな。誰だって。あの家に住んで・・・もとは20億の土地
があり・・・立ち退きとはいえ銀行もそれ相応の一時金くらいは出すやろ・・・
増してやダンボールにいくつかの家財道具もあるやろ?・・・と思うのが普通です
よね。
無いんですわ。裸一貫。いやいや、ふんどしひとつって事ですよ。
さすがの猛者、Fさんも呆れるのを通り越して、感心しきりでした。
ともあれ、KさんがFさんの目の届くところに落ち着き、とりあえず目先の衣食住
に困ってないことを知り、私は安心しました。
さらに2ヶ月ほど経ったころです。Fさんから突然電話がありました。
「Kが体調を崩して病院へ連れて行ったところ、重度の肝硬変だということで入院
治療が必要になった。それで、松山に同級生がいるので行政のほうの手続きも
代行して貰い、その病院へ入院させたから、時々見舞ってやって欲しい。」
ということでした。やはり酒を飲んでいたようです。まあ、あれだけのべつまくなし
に飲んでいたら肝臓やられないほうが可笑しいですよね。Fさんも飲酒について
は知っていたと思いますが、一般の入寮生ではないので知らぬ体でいたのでし
ょう。
そして、翌日、Fさんから再度電話がありました。
「昨夜、Kが食道静脈瘤破裂で相当な吐血をしたらしい。今夜あたり
が峠だという
ことなので、面倒だろうけど一度顔をみてやってくれないだろ
うか?」
早速、山の手にあるB病院まで行きました。
虫の息のKさんを想像して、「これが、今生のお別れか・・・。」と覚悟を決めてい
ました。
受付で病室を聞き、名札を探しながら歩いてゆくと、ベッドの上で病院から配ら
れたであろうナイロン袋に頭を突っ込んで菓子を食べている見覚えのあるオッ
サンが居ました。
それが、なんとKさんでした。
食道静脈瘤が破裂して、そのまま亡くなった人は沢山知っています。が、腹が減
って食事まで待てず菓子を貪っている人は初めてみました。しかも大量吐血した
翌日ですよ。
結局、普通のお見舞いとなりましたが、見舞いの品を持っていってなかったので、
彼の懐と食欲を鑑みて、売店で多量のジュースと菓子、パンなどを買い置いて帰
りました。
凄い生命力に圧倒されたのは、FさんやB病院のM先生も同じで、結局、Kさんは
一週間を待たず退院し、Fさん、M先生の尽力と人脈により、松山市の郊外に
ある保護施設で生活するようになりました。
ところが、ここからがやはりKさんは只者ではない。
かなり遠いその施設から、片道2時間もかけて徒歩で二番町界隈までヒッカケに
出てくるんです。門限がありますから間に合うように又、歩いて帰るのですが、
問題はツケのある店には行かないことです。
酒を飲み歩き、ツケ散らかす人に共通することですが、お金が少し出来るとツケ
を払って同じ店で飲むのではなく、ツケ散らかした店には行かず、新規に開拓した
店で飲み始め、お金が無くなったら、その店でもツケはじめ、そして、小金が入っ
たら又、その店のツケを放ったらかして別の店を開拓する・・といった具合です。
Kさんも、同じことをやっていたのです。当然、飲み屋街では一番嫌われる行為
ですよね。
そんなある日、閉店間際にKさんが突然やってきました。
「元気やった?^^」 とKさん、満面の笑みです。
「あのぅ・・・門限も過ぎたので歩いて帰るんもしんどなってな、タクシー乗ろうにも
お金残ってへんし、すまんけどタクシー代貸してや。」
ああ、そうですか。と笑って、たかがタクシー代といえどもお金渡せる人いますか
ねー?^^Fさんならいざ知らず、私は無理でした。
「Kさん、あんたね、虫が良すぎるよ。いくら千円、二千円くらい遣っても、残して
いる大きなツケからしたら屁のつっぱりにもならんからと、一杯の酒も飲みに寄ら
んと、タクシー代ねだるのはうちしかないんかね。いつも飲んでる贔屓の店で借
りたら良かろうがね。」
キツイ言い方はわかっています。しかし、そんなことで怯むようなKさんでない
こともよく解ってるんです。
私が言い放ったキツイ言葉には応えもせず、Kさんは顔色も変えないで笑顔の
まま、奥さんは元気か?息子さんは?、嫁にいった娘に孫はできたか?などなど
素晴らしい、粘り腰というか厚顔そのものです。
その逞しさは私などとてもとても足元にも及びません。
なにせ、手を伸ばしさえすれば幾ばくかは掴めた200Kgの札束を、ポケットに手
を入れたまま悠々と見過ごす猛者なのですからねぇ・・・。^^
私はタクシー代の3000円を出しました。
どうせ、出すのなら何も言うべきでは無かったなぁ・・・と少し反省しましたが、
「このお金は必ず返すけん。家に持っていこうか?」というKさんの口上に、「うん
にゃ、家には来んといて。ついでの折でええから店に持ってきて・・・。」とさらに
キツイ一発をかましてしまいました。
その後、暫くしてから律儀にも(当たり前だが・・・)Kさんはタクシー代を持ってき
ました。が私の店では一杯のお酒も飲まず、借金も申し込めない贔屓の店に
行きました。ええ度胸しとるやないかい!^^
これで、二度とタクシー代も貸さない!と決心しました。2009年のことです。
以来、Kさんも二度と来ませんでした。
今でも、知り合いのママさんから
「Kさんが飲みにきた。今日は現金だったけど、今後ツケられたらどうしようか?」
などと相談の電話があります。
相変わらず、肝硬変もなんのその・・・といっても、もう飲めないのです。ウイスキ
ーを注いでも飲まずに話だけして帰るそうです。話し相手が欲しいのでしょうね
・・・。
親しいそのママさんにはお願いしておきました。
「現金で払ううちは話し相手になってあげてくださいね。一度でもツケたら、かわい
そうだけど、うちの店は二度ツケは利きませんよ、次回必ず払ってくださいね。
と言ってあげてね。」と。
2011年の夏には、現在、入所している施設から発送した暑中見舞いが届きました。
それなりに元気に暮らしているようです。人間のしたたかさ、肉体はボロボロにな
りながらも寿命の来ない人間の強さというものに驚嘆を超えて畏敬さえ覚えました。
それでも、生きている彼に、ちょっと安堵した反面、彼から消えない「甘え」を文面
から強く感じました。
複雑な心境でしたが、返事を出すのは止めました。もう十分に関わりましたから・・・
ここらでKさんとの繋がりも絶つことに決めました。
その全ての思い出を記念して、ここに残します。
さようなら、Kさん、いつまでもお達者で・・・・・。
おわり
長い文章を読んで頂いた読者に心より感謝申し上
げます。
この記録は、私の記憶が飛んでしまわないうちに書き留めたものです。
改めて思い起こしながら書いてゆくと、外側からとはいえ少なからず
Kさんの人生に拘ったものとして万感の思いがします。
まだ少し残っているであろう今後の人生の糧と致します。
2011.11.15